『嫌われる勇気』を再読してみました。
この本のタイトル、「嫌われる勇気」とは、他者から嫌われることが自由ということです。他者からの評価を気にすることがないという意味で、「自由」なのだと思います。
「自由」について少し考えてみたいと思います。
好かれる勇気も自由
「嫌われる勇気」もたしかに自由のように思えます。だとすると、「好かれる勇気」も自由なのではないでしょうか。単に、評価がプラスかマイナスかだけだからです。
そして、「嫌う」のも自由でしょうし、「好き」になるのも自由でしょう。
そう考えると、「嫌われること」でもなく「好かれること」でもなく、囚われないことが自由なのかもしれません。
自分が良いと思うこと
だとすれば、自由とは自分にさえも囚われないということと言えそうです。他人とか自分とか、そういうことにも囚われない。
そういうことが自由。さらに進めたら、自分がそれで良いと思えることが自由と言えるのではないでしょうか。
身体からは自由になれない
ただ、生きている間は、身体からは自由にはなれません。今の自分の身体の中でだけ「精神」は「自由」であって、身体から抜け出したりはできません。
身体という「制限」の中での自由です。
どこまで行っても、制限があるわけです。その中で、どれだけの「自由」があるか。
時間の「制約」もあります。環境の「制約」もあるでしょう。お金の「制約」などもありますね。
いろいろな「制約」の中での、自由。それが現実だと思います。
「制約」の中で、どれだけ自分を発揮できるか?
だとすると、「制約」の中での自由をどう考えるか。どう発揮するか。
そういう方向に向けていくと良さそうです。
「制約」の中で、どれだけ自分を発揮できるか。これが現実的な自由なのではないかと思います。
自由になろうとすると、自由にこだわることになって、不自由
わたしは今あまり自由になりたい、なろうと思っていなかったりします。
自由にこだわって、不自由になっている感じがしたからです。そういう思考のベクトルではなくて、「制限」のある中で、どれだけ自分を発揮できるのか、より良いことができるのかということを考えています。
ここまで来ると、ほんとうに「自由」だなと感じています。制限があっても良いし、他人に嫌われても好かれても良い。
自分の選択。
そういう感覚になっています。
自然体で良い方向に進んでいける。そういうことが、自由なのだろう。そう感じています。
あなたが考える自由とは、どういうものですか?よろしければはてなブックマークのコメントなどで教えてくださいませ。
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